吟詠 声をお聞きください
suzuko takayama myspace
SUZUKO TAKAYAMA 本名・高山すづ子
雅号・高山鈴風 はキングレコード吟詠剣詩舞会の専属芸術家でもあり、師範でした。
高山すづ子は昭和57年第12回クラウン全国吟詠コンクール甲信越地区大会において優秀賞をクラウンレコード株式会社・社長・伊藤正憲氏より受けました。
雅号 高山鈴風 ・本名 高山すづ子は昭和63年5月29日にキングレコード株式会社のキングレコード吟詠剣詩舞会・会長・満留紀弘氏から委嘱もうけ伝統文化継承に貢献させていただきました。
このほかに多数受賞しています。
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クラウンレコード株式会社 社長 伊藤正憲氏の略歴
日本クラウン株式会社 Nippon Crown Co, Ltd.
日本の総合音楽企業。商標名はクラウンレコードで、
1973年から1990年の間は、社名もクラウンレコード株式会社。
アーティスト主導の業務内容を打ち出した日本初のレコード会社。
1963年9月、日本コロムビア常務兼レコード事業部長だった辣腕プロデューサーの伊藤正憲が、
有田一壽(若松築港社長、後に新自由クラブ参議院議員)と三菱電機の支援を得て独立。
馬淵玄三(五木寛之の連作小説[1]のモデルになった同社文芸部ディレクター)、
斎藤昇(同ディレクター、後に社長〜会長)、星野哲郎(作詞家)、
米山正夫(作曲家)、美空ひばり、北島三郎、水前寺清子らが伊藤正憲を慕い行動を共にした。
最初に契約した新人は西郷輝彦。
1972年 専属 作曲家・市川昭介 〜 ほか
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キングレコード株式会社のキングレコード吟詠剣詩舞会・会長・ 満留紀弘氏は
キングレコード株式会社キングレコードディレクター プロデューサー。
日本伝統芸能の企画制作プロデューサー。
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SUZUKO TAKAYAMA 本名・高山すづ子
吟詠雅号・高山鈴風 は信州にて詩吟を始め数々の吟詠コンクールに出場して多数の優秀賞を頂き
キングレコード吟詠剣詩舞会の専属芸術家でもあり、師範でした。
高山すづ子は昭和57年第12回クラウン全国吟詠コンクール甲信越地区大会において優秀賞をクラウンレコード株式会社・社長・伊藤正憲氏より受けました。
吟詠雅号 高山鈴風 ・本名 高山すづ子は昭和63年5月29日にキングレコード株式会社のキングレコード吟詠剣詩舞会・会長・満留紀弘氏から委嘱もうけ伝統文化継承に貢献させていただきました。
高山すづ子(旧姓・塩原すづ子)は信州に生まれ家は代代果樹園を経営していた、信州産フルーツの品種改良を得意としラフランス洋ナシ、巨砲ぶどう、リンゴ等の新種を研究し、創り出した改良新種フルーツが食卓に上がっていた、私が幼少の1959年頃から すづ子の実家に試食しに行くのが楽しみだった、広い納屋にはリンゴや葡萄を送り出す為の木の箱が沢山積んであり木の香りと熟れたフルーツの甘い香りが充満した空間で夜の白黒テレビ番組西部劇 ララミー牧場やローハイドーなどの放映時間を待ったものである。
子供の頃のすづ子は近くのワイナリーでワイン制作の手伝いをしていて渋みのあるワインを醸すには葡萄の蔓をブレンドして醸すのだと話していた。
写真所蔵は塩原俊郎
すづ子は洋裁学園に通っていたので和裁洋裁は得意でセーターなどハイカラなデザインでよく創ってくれた。着ているとよく誰が作ったのいいねと話題にされた。
私の小学校の担任は授業参観には必ず母すづ子がくる様にとファンのような念をおされたものだった、子供心にかなりいけてる母親だった。
すづ子の自慢の兄は戦時中、教員もしていた真空管ラジオを製作するのが得意で近所の家のラジオを直してあげていて、音量が小さくなったラジオは真空管の頭の部分に
ローソクカーボンをいぶし付けると再生するといっていた、その兄は日本の高度成長期の時代 1960年から1980年代 株式会社・田村電機制作所
(日本の公衆電話機のトップメーカー、カウンターでも)の重役 工場長 塩原俊郎である(NTTが電電公社の時代)、俊郎は多数の特許を取得していて
妹のすづ子にも何件か譲渡しようかなどといっていた。 1974年にドイツからフレックスタイム制を導入し出退社時間自由制にし日本の高度成長に貢献したトップの一人である。株式会社田村電機製作所は2004年に合併してサクサホールディング株式会社になっている。
<< 国立国会図書館デジタルコレクション田村電機製作所 塩原俊郎 1965年.
1967年の欧米視察論文
国立国会図書館内公開 詳細レコード表示
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3208108 + 1967 > 15 (6) (172)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3229627 >>
晩年は地震予知学をやっていた、
塩原俊郎の次女はロサンゼルスに家を3軒もつアメリカ人と結婚し家庭を持つ。
もう3人の兄達の一人は戦時中航空写真を撮影していて戦略地図制作を担当し機関砲の破片で目許を負傷した、帰郷して国家資格測量士。 あとの二人の兄達の一人は戦時中 皇居で天皇のボディーガード近衛兵をやっていたので普段の立ち振る舞いが天皇に似ていた、天皇の日常の行動から寛平御遺誡を無意識に伝搬されたのだと思う、その兄の代々フルーツ園には歴史的な国家功績者を記念した自然大石碑がリンゴ樹のなかに建っていた、2023年今も台座に菊の紋章がある明王像がフルーツ樹のなかに鎮座されている。 終戦後は2人とも果樹園経営フルーツ品種改良家である。
すづ子の姉と妹は3姉妹仲がよく、妹は酒屋を経営しているそのエピソードに俳優・緒方拳が映画のロケ中 妹の酒店にビールを多数買いに来てサインをもらい、店が華やいでいる。
母すづ子は私の幼少の頃よく雑誌リーダーズダイジェストを読めよ、と言っていた。
母のポリシーは弱い立場のかたには暖かく摂しろ、である。そして、すれちがう人には挨拶しろ、である。
よく三角巾包帯の使い方を何度も教えてくれたものである、命を救う三角巾。
初めて買ってもらった本は手塚治虫の漫画本である。
高山行雄は菜園とブドウ園のオーナーであった。
すづ子の夫・高山行雄は地方の議員に立候補した際、全国放送NHKのニュースに取材され旧家元銀行の道祖神並びの前で
選挙演説する高山行雄を私が都内のテレビで見た時には驚いた、選挙地域の議員任期が全国的にみても民主的な一期で入れ替わる議員が多いという内容をアピールした1983年春の7時のニュースである。
当選し村会議員になり高山行雄は産業委員長として中央省庁に自ら訪れ相談陳情を重ねて、選挙区域の家々に国の有線放送モデル地区構想のはしがけにもなったシステム構築を関係者とともに率先し、中曽根康弘首相の時代に実現した1980年代中頃。
BS放送を家々に送る、世界のニュースをダイレクトに村の各家で見れる当時の先進メディアモデル構築助成を国に認めさせた助成金は億単位である。
以後 CNN ABC MTVなどの国際テレビ番組を20年間無償で送信伝達させ暮らしを明るくした。
高山行雄は終戦時大陸でソ連軍に集団抑留され、ソ連政府と日々の生存食料医薬品 生存環境の改善の交渉をなんとロシア語で折衝していた経験があり、高山行雄軍曹として皆の生存をソ連政府に積極確約させ無事に日本に帰国した。のちに抑留戦友の関根からNHKテレビ放送へ戦争記録番組の制作情報として伝えましたと報告をうけた、ちなみに
1963年東京オリンピックで「東京五輪音頭」を広めた歌手三波春夫もソ連軍に集団抑留された一人である。
高山行雄の弟・高山としお は東京農業大学を卒業後ブラジル移住で大きな商店を経営し、日本ブラジル友好協会会長に成り昭和天皇のブラジル慰問パーティで昭和天皇と会見した時の思い出を尊厳であったと話していたその内容は、昭和天皇は皇の気を話しながら出していて安堵感に包まれ直な温感に感激した、私が合いの手を入れて、人間は敬われていると皇の気を出せるようになるんだなと敬応すると、同じ日本人だから皇の気を理解できる能力が備わっていると言いながらにこやかに共感しあった、ブラジル産インスタントコーヒーの販売もやっていて粉をコーヒーに戻すときにお湯でチョコレート状によく練ってからお湯を注ぐと非常に美味くなるレシピ、電子粒子分子構造などが美化され美味しく仕上がる自然現象がありこの現象は皇の気を解明する手がかりの一つだと語り合った、伝統を良く練って今を注ぐと重要な文化の推力になると結論した夜だった。高山としおの親友は、新宿紀伊国屋書店ビル寄りに位置し、よく編集者達が打ち合わせしていた有名喫茶店トップスのオーナーである、新宿トップスの周りのケヤキは高山としおの信州の実家にある巨木ケヤキが元親樹で実家のケヤキ感を新宿トップスからも漂わせていた、1981年ブラジルから凱旋帰国旅行の時の高山としおの履いていた靴に驚いた
JOHN LOBB(ジョン ロブ)40万円超高級品であった、サンパウロのビジネスビル街でフィアット3台をスニーカー替わりに乗っていて、燃料はすでにアルコールだった。
高山行雄の弟・高山おさむ は大阪の製薬問屋ルートで1970年初めのアメリカ視察旅行を撮影している。
高山行雄の妹も大変仲良しで中信平で生命保険外交をし情報家として有名で茶道の掛軸画家でもある。
{(子供達がいとこであると言われることがあるのでここに正確に記す)高山行雄のいとこは女優秋本 奈緒美の祖父の後妻で波田蒲生家つながりである、秋本 奈緒美嬢は先妻系の遠縁関係である、すづ子は手打ちそばの名手で女優秋本 奈緒美の祖父の好物である手打ちそばを差し入れしていたことがある、秋本 奈緒美嬢の家は松本市伊勢町でジーンズショップとジャズ喫茶を経営していた、女優秋本 奈緒美嬢が歌手デビューコンサートを松本市でお披露目した時には行雄すづ子も招待された、秋本
奈緒美嬢が最初の結婚の時にはお祝い状が届いた。}
高山行雄もすづ子同様吟詠の師範であった。
高山行雄・すづ子夫妻の長男は全国的な書道展で入賞出展歴が多数ある書道家高山秀雲で東京都美術館での展示歴も有する、秀雲の妻の父の弟は警察署長を歴任していた人物である。
高山明弘は世界の著名音楽家作家を撮影している写真家AKIHIRO TAKAYAMAであり、レコード本雑誌等で活躍し、若い頃から撮影してきた写真作品を公開しながら社会還元力を併せ持つ芸術家である。
長女は栄養士の資格を有し、ゆず素材の美味ゆべし江戸時代には徳川家に献上していた柚餅子の名料理家高山こずえである、柚餅子は最高の自然食で日本伝統食の芸術であり、世界中のベジタリアンの趣向に合う、こずえは1980年代から女流握り寿司を開拓して活躍している。
時はながれ高山行雄・すづ子が亡くなり、吟詠を録音したテープが保存してあったなかから録音状態がよいものを選んで
編集しここに追悼しました。
そしてクラウンレコード株式会社 社長 伊藤正憲さんもお亡くなりになりましたが、
母すづ子に吟詠・優秀賞をいただき本当にありがとうございます。
キングレコード株式会社のキングレコード吟詠剣詩舞会・会長・ 満留紀弘さんに
母に賞をいただいてありがとうございます。
母が亡くなり消沈していた私に満留紀弘さんが電話で、連絡どうもありがとうとおしゃっていただき、
かさねてありがとうございました。
すづ子が最も好きな映画スターウォーズの初回記念プレミアムコレクション品。
流星群が現れた時期、杯にお酒をついで星空に揚げて観測したほどの流れ星マニアだった、
こうするといいことがあると言っていた。
すづ子の瞳
すづ子のガーデニング
CONTACT MAIL * suzuko-takayama@hotmail.co.jp
子供時代に戦禍を生き抜いてきた同級生たちの集い。 手前から2段目 植木側から5人目が高山すづ子(旧姓は塩原すづ子)。
戦後の復興と高度成長期を支えてきたかたがたです ごくろうさまでした。 写真所蔵・すづ子の同級生の方々